| 成無已は、宗・金時代の聊摂(今の山東省城西)の |
| 人。北宋の嘉祐の頃(1060年頃)生まれ、後に聊摂の |
| 地で金兵に捕らわれ、金人となる。 |
| 代々医者の家に生まれ、聡明で博覧強記。若い頃から |
| 中原の名医となり、古典医学書を研究。特に仲景の『傷 |
| 寒論』に傾倒し、30歳を過ぎてから六経の学説を熱心 |
| に研究し、『内経』『難経』などの書を頼りに『傷寒 |
| 論』に全面的な注釈を加え、およそ40年の歳月を費や |
| して書き上げたのが、『注解傷寒論』と『傷寒明理論』 |
| です。 |
| 当時、宗と金は中原一帯でたびたび交戦していまし |
| た。成無已は80歳を過ぎてから金人の一族の病気を診 |
| るよう脅され、臨?(当時金が占領していた北の都)に |
| 連れて行かれました。この時には著作はまだ変更のまま |
| だったで、一緒に金へ持っていかざるを得ませんでし |
| た。正隆元年(1156)、王鼎という人が弟を探して |
| 臨?に行き、時に九十すぎの老人であった成無已がなお |
| も医療活動を続け、「百に一の過失もない」様子を目の |
| 当たりに見て、いたく尊敬し、彼の著作を刊行したいと |
| 申し出ました。しかし成無已は金朝の非難を恐れ、外に |
| 広める気にはなれませんでした。ほどなく成無已は金の |
| 地で不帰の人となってしまいます。 |
| 彼の死後、『傷寒明理論』は金の正隆3年(1158) |
| 頃に出版され、『注解傷寒論』は十七年後にある人の手 |
| で中原へ持ち帰られ、王鼎により刊行されました。こう |
| して成無已の著作はようやく世に伝わることになったの |
| です。 |
| 『注解傷寒論』は王叔和が整理した『傷寒論』を原本 |
| とし、『内経』『難経』の諸説に基づいて、各条に簡潔 |
| に注したもので、現存する最古の『傷寒論』全注本で |
| す。後世の医家にとって『傷寒論』を学ぶ為の必要不可 |
| 欠な書物となりました。 |
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| *宗代は歴代中国の中でも印刷術を筆頭に、文化事業に |
| もっともお金をかけた時代で、現代に伝わる古典のすべ |
| てこの時代に整理出版されたことは前回述べました。時 |
| 代は漢民族の宗代から、北方民族支配の金・元時代へと |
| 移っていきます。 |