| 厳用和、字は子礼。南宋の南康(今の江西省南康県) |
| の人。しばしば廬山で医療活動を行ったので、廬山仁と |
| 自称した。 |
| 「ずばぬけた知力で一を聞いて十を知り」、17歳で学 |
| 業を修め、自分で看板を出して開業すると「年少ゆえに |
| 学問も浅かろうとは誰も思わず、次から次へと人々が訪 |
| れ」、求められればどんな遠い場所へでも往診に行き、 |
| 「権貴な人々も礼を尽くして宴に招き、客人としてもて |
| なした」といいます。 |
| 先人の貴重な体験を吸収するのが上手く、諸家の優れ |
| た点を取り入れ、また臨機応変で、学派にとらわれませ |
| んでした。『内経』『難経』『傷寒論』『金匱要略』 |
| 『脈経』『巣氏病源』『千金方』『和剤局方』『三因 |
| 方』などに大きな影響を受けました。世の中は古今で異 |
| なり、各地の風土はさまざま、古人の天賦の才にも差が |
| あるので「もし古人をおおむね修めて今の病気を治療す |
| ることができたなら、予期せぬ効果が現れる」と考えま |
| した。そして古方については、時・場所・人によって用 |
| いるのが肝要で、そうしてはじめて有効的に実際に合っ |
| た使い方ができる、と主張しました。 |
| 厳用和は先人の経験に、自分の臨床実践を通して検証 |
| を加え、三十数年の臨床努力を経て、南宋宝佑元年 |
| (1253)に『済生方』十巻を著しました。さらに十五年 |
| 後に前著を補うべく、『済生続方』八巻を著しました。 |
| 当時は方書が流行し、方論が盛んでした。例えば『千 |
| 金方』には5300あまりの方が載っていますし、『外台秘 |
| 要』『太平聖恵方』と次第に増え、『聖済総録』では二 |
| 万以上にもなりました。臨床医はその膨大さに感嘆する |
| ばかりで、どれに従えばよいのか分からない状態でし |
| た。厳用和は数え切れない古今の方論を、自分の臨床経 |
| 験に照らして大幅に削り、『済生方』では五百あまりに |
| まとめ、たいへん実用的で把握しやすくしました。 |
| 『済生方』は中国はもとよりむしろ日本で重視され、 |
| 鎌倉時代の梶原性善の『頓医抄』や室町時代の有隣の |
| 『福内方』にたくさん引用され、江戸時代から現代に至 |
| るまで使われている方剤もたくさんあります。呉澄とい |
| う医家は、「私には厳氏の『済生方』の薬が最もよいと |
| 思える。簡潔で、すぐに効果が現れる。おそらく厳先生 |
| は日常の臨床で方剤をよく試しているのだろう」と言っ |
| ています。 |