漢方医列伝










「漢方医列伝」

厳用和
(1200?〜1267?)

 

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 厳用和、字は子礼。南宋の南康(今の江西省南康県)
の人。しばしば廬山で医療活動を行ったので、廬山仁と
自称した。
 「ずばぬけた知力で一を聞いて十を知り」、17歳で学
業を修め、自分で看板を出して開業すると「年少ゆえに
学問も浅かろうとは誰も思わず、次から次へと人々が訪
れ」、求められればどんな遠い場所へでも往診に行き、
「権貴な人々も礼を尽くして宴に招き、客人としてもて
なした」といいます。
 先人の貴重な体験を吸収するのが上手く、諸家の優れ
た点を取り入れ、また臨機応変で、学派にとらわれませ
んでした。『内経』『難経』『傷寒論』『金匱要略』
『脈経』『巣氏病源』『千金方』『和剤局方』『三因
方』などに大きな影響を受けました。世の中は古今で異
なり、各地の風土はさまざま、古人の天賦の才にも差が
あるので「もし古人をおおむね修めて今の病気を治療す
ることができたなら、予期せぬ効果が現れる」と考えま
した。そして古方については、時・場所・人によって用
いるのが肝要で、そうしてはじめて有効的に実際に合っ
た使い方ができる、と主張しました。
 厳用和は先人の経験に、自分の臨床実践を通して検証
を加え、三十数年の臨床努力を経て、南宋宝佑元年
(1253)に『済生方』十巻を著しました。さらに十五年
後に前著を補うべく、『済生続方』八巻を著しました。
 当時は方書が流行し、方論が盛んでした。例えば『千
金方』には5300あまりの方が載っていますし、『外台秘
要』『太平聖恵方』と次第に増え、『聖済総録』では二
万以上にもなりました。臨床医はその膨大さに感嘆する
ばかりで、どれに従えばよいのか分からない状態でし
た。厳用和は数え切れない古今の方論を、自分の臨床経
験に照らして大幅に削り、『済生方』では五百あまりに
まとめ、たいへん実用的で把握しやすくしました。
 『済生方』は中国はもとよりむしろ日本で重視され、
鎌倉時代の梶原性善の『頓医抄』や室町時代の有隣の
『福内方』にたくさん引用され、江戸時代から現代に至
るまで使われている方剤もたくさんあります。呉澄とい
う医家は、「私には厳氏の『済生方』の薬が最もよいと
思える。簡潔で、すぐに効果が現れる。おそらく厳先生
は日常の臨床で方剤をよく試しているのだろう」と言っ
ています。
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