| 李杲、字は明之、晩年は東垣老人と号した。真定(今 |
| の河北省正定県)竹里の人。金元四大家の一人で、脾胃 |
| 学説を創設した。金の世宗大定二十年(1180)生ま |
| れ、蒙古の憲宗元年(1251)卒。享年71歳。 |
| 李杲は豪族の家に生まれ、幼い頃から博覧強記で、弱 |
| 冠にして儒生として名を知られましたが、ちょうどその |
| 頃、母の王氏が病に倒れました。そこで発奮して易州の |
| 張元素について医学を学び、数年を経ずしてことごとく |
| その法を修めたといいます。 |
| 李杲が生きたのは、金と元がたびたび干戈を交える戦 |
| 乱の時代でした。元兵の殺戮を逃れて開封へ行き、医術 |
| で公卿や貴族の間をわたり歩いていましたが、ほどなく |
| 開封も攻められ、城門は閉ざされ住民は飢餓に苦しみ、 |
| 疫病の流行で、城内では百万にのぼる人々が死んでいき |
| ました。 |
| 李杲はその様子を目のあたりにして、内傷が疾病発生 |
| の主たる要因であるという内傷学説を提唱しました。当 |
| 時一般の医家は、仲景の方(傷寒論)か河間・子和の法 |
| (攻邪派)を遵守するのみで、新しい工夫がありません |
| でしたが、李杲は各地の疫病流行の状況を観察し、多く |
| の疾病が必ずしも外感風寒によっておこるのではなく、 |
| 不安定な社会環境や人民の疲弊・飢餓。ストレスにより |
| 寒温バランスが失うのが原因であると考えました。彼の |
| 著書である『内外傷弁惑論』には、「内傷熱病」と「外 |
| 感熱病」の脈象・寒熱・頭痛など各方面での違いが詳細 |
| に述べられています。外感熱病には攻邪の方法を用いる |
| のがよろしいが、内傷熱病には「正を扶(たす)け以て |
| 邪を去る」べきである、というのが彼の治療原則です。 |
| また脾と胃が人体で重要な働きをし、「脾胃を内傷す |
| れば百病がそのために生ずる」とし、元気は生命活動の |
| 源泉・健康の根本であり、『脾と胃こそ元気の盛衰を決 |
| 定するカギである』と主張しました。そこで後世「補脾 |
| 派」と呼ばれています。現在でもさかんに用いられ |
| 「補中益気湯」という漢方薬は彼の創方です。中は脾胃 |
| のことで、彼の考えをそのまま方剤の名前にしたもので |
| す。多くの種類の生薬を少量ずつ用いて組み合わせるの |
| も、彼の方剤の特徴でした。 |