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7.葛洪(かつこう)—伝染病の研究大家

伝染病の研究大家
葛洪(かつこう)  281?~341
葛洪

煉丹の過程の科学的発見

葛洪、字は稚川、丹陽句容(江蘇省句容県)の人。生まれは西晋の太康2年(281)ころ、東晋の咸康7年(341)ころ没。有名な煉丹家であり、流行病・伝染病の研究大家であった。彼は性格がのんびり、口下手で付き合い下手、質素な服を着て、無口だったので、人々は「抱朴の士」と呼び、自ら「抱朴子」と号した。
代々宦官の家柄で、祖父、父ともに仕官していた。のちに戦乱によって没落する。父の死後、苦しい生活のなかでも、彼は諸子百家を学び、医学や養生の道を研修する一方で、有名な術士である鄭隠に師事して、煉丹術を学んだ。

のち、仕官を勧められても固辞していた。が、煉丹術や医薬学のためとなると、葛洪は老いてからも句漏(こうろう)(今のベトナム北部ハノイの西、または今の広西チアン族自治区ともいう)の長官となることを要請した。晋の成帝は、彼の高齢を理由に許可しなかったが、「栄誉のためではありません。丹があるだけのためなのです」という葛洪のことばに、やむなく許可した。煉丹、薬採り、医術、著述に専念して、とうとう寿命を迎えた。

彼の著作活動は非常に広大で、およそ220巻以上という記録がある。「抱朴子」「金匱薬方」「肘後備急方」などである。「抱朴子」は全70巻で、戦国時代以降の神仙方術の集大成とともに政治的議論を収め、儒・道一体となった思想がうかがえる。「金匱(きんき)薬方」は100巻という大部であるが、散佚してしまった。「肘(ちゅう)後(ご)備急方」はもと「肘後救卒方」といい、「金匱薬方」中から選んだ実用的な方薬集である。「肘後」は手軽といった意味である。後に陶弘景らが補充整理していまに伝わる書名となった。

葛洪の功績は、まず煉丹の過程の科学的発見があげられる。煉丹とは錬金術であり、今でいう化学のことである。煉丹術が中国からアラビアに伝わり、のちにヨーロッパに伝わって、近代化学の萌芽となったといわれている。

流行病と伝染病の研究では、「肘後備急方」に次のようにある。
「発瘡頭面皮、状如火瘡、皆載白漿、不即治、劇者多死、治得差後、瘡瘢紫黒、此悪毒之気」。これは一体何の病気でしょう?
私たちも習ったことのある法定伝染病のひとつです。(答えは文末に)
この「肘後備急方」とまったく同文が記されている木簡が、最近の奈良平城京の発掘調査で発見された。紀元700年頃のものと見られる(木簡とは紙のなかった頃の木片で作ったノートのこと)。遣唐使たちが伝えたものだろう。

(クイズの答え)正解は「天然痘」でした。「あばたもえくぼ」のあばたを残すことで有名です。漢文が読めなくても、何となく漢字の様子であばたの印象を受けるでしょう。かの文豪夏目漱石は、この「あばた顔」で長く劣等感を懐いていたという話もあります。

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