27.戴思恭(たいしきょう)—明の洪武帝の寵愛を受ける

戴思恭
戴思恭(たいしきょう)  1324~1405

仁義に厚い人

戴思恭、字原礼、明の浦江(今の浙江省浦江)の人。

学者の家の出で、幼い頃から優れた教育を受け、経世活人の心を育まれて医学を志したといいます。朱震亨(丹渓先生)を訪ねて師と仰ぎ、その才知を愛されて、医術をことごとく授けられました。

明の洪武年間に都の御医に迎えられ、太祖に寵愛されました。ある時、晋王が病気になり、戴思恭の診察で治ったものの、のちに病が再発して死んでしまいました。太祖は侍医の罪であると怒りましたが、戴思恭が「以前、診察した時に、今は治りますが、毒が膏肓こうこうに回っている(膏肓は背中にある経穴の名前で、「病膏肓に入る」として有名)ので、再発したら助からないでしょう、と申し上げました。やはり心配した通りでしたか」と口添えしたので、侍医は死を免れました。

また、洪武31年(1398)に太祖が病気になった時のこと、戴思恭に診てもらって少し軽くなったので、これまで診察させた侍医たちを「役立たず」と獄に下し、戴思恭に「そちは仁義に厚いから気にするだろうが、これはそちとは関係のないことだから」と語った、というエピソードもあります。

著述に「証治要訣」「証治類方」「証治用薬」などがあるとされていますが、処方集の「証治類方」には、師の丹渓先生が嫌った「和剤局方」からの引用が多く、丹渓の処方がひとつも引用されていない、などのことから、戴復庵という別人の著作を後代の人が誤ったのではないか、という説が有力です。
すでに登場した金元四大家の著作も、じつは誰が真の作者か、ほとんど同定することは不可能なのです。中国医学の歴史は、純然たる積み重ねの歴史ですし、参考引用文献は必ずしも明記しないで、自分の見解を少し書き加える習慣が定着していますから。

時代はそろそろ蒙古民族支配の元の時代から、再び漢民族支配の明へと入っていきます。日本では、鎌倉幕府が滅んで室町幕府の時代。西暦では14世紀。英仏百年戦争のころのおはなしです。

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