21.お薬でなんとかなるというのは大間違い。必ずしも薬はいらないということが当たり前になってほしい。

カルテ1ページ分の薬の処方

慢性病という場合、実際入院が必要なほど日常生活に支障をきたした経験のある方と、ドッグや検診で(たとえば血圧のように)予防的にいわば慢性病の診断をされている方と、二通りあります。

前者の方、たとえば、インシュリンで血糖をコントロールしている方や、膠原病でときどきは入院を必要とする方、神経科から服用していて、時には入院が必要な方などは、その病院と当院の2カ所を受診していることは、正解です。

最近では、難しい病気に病院のほうから漢方薬を出すことが多いので、漢方薬は他でもらっていますから、とはっきり言ってください。それでも断れずもらっている方は、それを見せてください。
その処方をいかすように指導します。どうみても不適切な場合は、処方しなおします。
後者の方は、特別な場合以外、ほとんどの場合、当院だけにしてください。

検診を受けて、標準値から外れている項目ごとにお薬がある、それを服用すれば、一つ一つやがて標準値に戻る、と考えていませんか? と皆さんに聞くよりも、そのように指導してそのように色々の薬を出す先生が今だにたくさんいる、ということが大問題なのですが・・・(薬を出すことが医師の仕事と思い込んでいる先生には近づかないこと。

何種類もの薬を出し、他の医師から服用しているかどうか確かめないような先生からは離れましょう。高血圧とコレステロールと心臓の薬、これが循環器内科の先生。めまいの薬が耳鼻科の先生。頭痛の薬が脳外科の先生。胃潰瘍の薬、肝臓も少し数値が高かったのでこの薬、これは消化器科の先生、からはじまって、痒い肌には皮膚科の先生、膝の痛いのは整形外科の先生と・・・と、薬を見せてもらって錠剤をクリップしながら確かめていると、カルテが1ページ埋まってしまうような方もいます。

こういう方は、ご自分は病気だらけの弱い人間と思っているでしょうが、なかなかどうして、私どもに言わせれば強者です。なぜなら、そんなにたくさんのお薬を飲んでも生きているからです。お薬で生かされているのではないのですよ。お薬を飲んでも、身体が強いから大丈夫なのです。

人間の身体は、検診の項目の数の足し算でできているのじゃないですよ。もっともっとたくさんの要素が複雑にからみあって、生命活動を推し進めているのです。ですから、一見無関係に見える項目も、根は同じということが多いのです。

私たちが検診の結果を見る時は、全体の項目を見て、その方の身体の歪み、生活の歪み、体質的な弱点等のある傾向を判断します。それはしばしば古来漢方の世界で言われてきた診断基準で、ピタリと言い当てることができます。
ですから、それに添って漢方処方を組み立てられれば、何も色々の薬を服用する必要はないのです。さっきの例のような患者さんでも、基本的には当院だけで用は足りるはずです。

新薬の認可が甘い日本

私は「皆さんはたくさんの薬を服用して生かされていると思っているかもしれないが、実はそれほど薬を服用しても生きているくらい人間は丈夫にできているのですよ」と、皮肉っぽく書いたのですが、これを読んだある病院の先生から、「よくぞ言ってくれました。患者さん用のパンフであんなこと言ってのける先生は、エライ!」とお褒めのお手紙を頂きました。

実は、大半の心ある先生方は皆そう思っているのですが、口にはそう出しにくいと感じておられます。そして「世界一の薬大国日本は永遠に不滅です」は、何故なのでしょうか。
皆さんは、現代合成医薬品に疑問をもたれて来院されている方々なので、こんなことを率直に書けるわけです。

今、大学病院の各科の先生に「ほんとうに必要な薬、明らかに有効有用な薬、ないとホントに困る薬は、どのくらいありますか?」というアンケートを出したとします。恐らくほとんどの先生が20種以上の薬は挙げないでしょう。

別のアンケートの仕方でもよい。「ある経済的事情により、先生が使える薬が20種類と決められているとします。どうぞその20種類を選んでください」でもよい。同じ科の先生たちはほとんど同じ20種類を選ばれるでしょうし、20位以下は先生一人一人によって、急に選ばれる薬はバラついてくると思われます。つまり、そんな薬はあってもなくてもよいのです。

しかも各科で共通に挙げる薬が多いはずですから、全体として現在の医療に必要な薬は、せいぜい100種類以内でしょう。いま日本で厚生省が公認し、病医院で実際使われている薬は、大体8.000種類くらいです。
どういうことか考えられますか? 平静によく考えてみて下さい。「素人には分からない」じゃ、済まされないですよ。服用するのは貴方であって、医者じゃないのですから。
一つ考えられるのは、厚生省が新薬を認可する時の評価基準が甘いのではないか、ということ。これは間違いなく世界一甘い。

次から次へと薬が認可され、使われます。最近新聞でごらんになったかも知れませんが、少し基準を厳しくしようなどと、今頃寝とぼけたことを言っています。冗談じゃない。誰にのませているのか?犬や猫の薬じゃないんだぞ。次から次へと厚生省が認可し、病医院で使われはじめる薬のうち、10年以上使われ続ける薬はいくつもないのですよ。そんな薬がどうして皆さんの寿命を長くすることができますか。

たとえば10年の歳月をかけ、何10億円の開発費を使った新薬のテストの最終段階で、何か不都合が生じた時、貴方が企業の責任者だったら、どうしますか?
「副作用」とか「効かない」とか、不都合な部分をなるべく消してしまいたい、と思うでしょう。だから臨床試験を積む時に、批判的な先生には頼まないし、お金で解決つくなら、いくらでも出すし、政府・厚生省にはウンと献金するでしょう。そのときスッポリ抜け落ちているのは、誰が服用するのか、というごく素朴な良心です。認可する方も「企業が大変だからまあ認可しよう。でも10年くらいで恐らく市場から消えてゆくだろう」くらいの気持ちでしょう。
ウーン。なんかガックリしちゃうなあ。でも皆さんが服用している大方の薬は、みんなこんなもんですよ。

薬グルメの人たち

何故こんなにおびただしい種類の薬が使われているのか?
第一は、厚生省が薬として公認する基準が甘いということ。第二の理由は、やはり需要があるからでしょう。必要があるから開発されるわけだし、開発すれば売れるから(医師が患者に渡すから、患者は何でも薬をもらいたがるから)、メーカーは「次の売れ筋は、次の売れ筋は・・・」と消費者の病気動向をにらみながら開発するわけです。消費者(患者さん)には、本当にそれらの薬が役立っているのでしょうか。

思い出すのは、食品です。当院の食事指導をしている幕内先生は、玄米を中心に食べればおかずはそんなに多種類必要でないという立場です。身体に必要な栄養素を大方揃えた米・玄米のような「主食」があれば、文字通り他は副菜でいいという考え方です。
それに対して、現代栄養学では一日に30~50種類を食べなくてはいけないといわれます。実際、日本で日常的に食べられている食品は、数え方にもよりましょうが数百種類でしょう。そんなに必要かな? 昔みたいに一汁一菜に戻るか? その方がいいのなら・・・。

はてさて。ところで薬は食品ですか?(医食同源とは言いながら)食品が多様になる。あれも食べたい。これも食べてみたい。あれは美味そうだ。これは一つの文化であり、人間として生活水準が上がれば、衣食足れば、グルメ志向になるのは、ある意味で当然でしょう。
地球の裏側までマグロのトロを捕りに行ったり、「いけす」と称するものを東京の店の真ん中において、そこで泳がせている魚を「新鮮な活きづくり」として食べさせるようなグルメブームは、馬鹿馬鹿しいと一笑に付すだけの見識は欲しいと思いますが、こんな「バブルを食べる」ようなことでも、やがて文化として定着すれば、世界に冠たる日本料理の多様さと称されるようになるのだと肯定的な評価もありましょう。
動物虐待で話題になっているフランス料理のフォアグラだって、中国料理だって、ずいぶん「バブル」を食べているじゃないかと・・・。

そうです。皆さんは薬グルメなのですよ。あれも飲みたい。これも服用してみたい。あれは効きそうだ。あれはよさそうだと言われるから是非試してみよう。おいしそうな薬だ! 「薬喰い」というコトバがあるほど、日本人は薬好きといわれます。「民族の伝統・知恵で、文化のひとつだ」と言ってニコニコしていてよいでしょうか?

考えなくてはいけないのは、「薬喰い」の時代の薬は、生姜やニンニク、卵酒や当時は稀な牛肉であったり、せいぜい民間薬や漢方薬など、自然に生えているものでした。今は違うのですよ。合成医薬品です。薬=ヤクですよ。決して身体が自然に欲するようなものじゃないのですよ。得られるメリットが余程大きくない限り、副作用よりも圧倒的にメリットが大きいと判断された時のみ、限定して服用すべきものばかりです。

Aさんの手の小指が腫れました。「先生、薬ください」「炎症を止める薬を出しましょう」一週間後「先生、今度は薬指が腫れました」先週と同じ薬を出すとAさんは納得しません。
「先生、この薬は小指の薬では?今日腫れたのは薬指ですよ。別の薬ください!」クスリ指だから別のクスリだとシャレで喜んでいる場合じゃありません。さすがにAさんはおかしいと皆さん思いますか?

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症状の分類と投薬

こんな例は如何ですか。「先生、鼻つまりで困っているんですけど」「そうですか。じゃ、これ服用して様子みて下さい」 2週間後、「先生、まだつまるんですけど」先生が同じ薬を出すと、「先生、違いますよ。この前つまっていたのは右の鼻です。今日は左の鼻がつまっているんだから別の薬をください!」
笑い話として一笑に付すことができるでしょうか。病院には、小指と薬指が腫れた時、それぞれ別の薬が用意され、右鼻と左鼻がつまった時の為に、それぞれ別の薬が開発されているのでしょうか。

話がそれますが、漢方に詳しい患者さんたちは、鼻水がやたら出ると小青竜湯、鼻がつまって困る時は葛根湯と思っている方が多いようです。
考えてみて下さい。鼻に炎症がおきた時、鼻水が出たり、鼻がつまったりするのですよ。ひとつの状態の両側面なのです。ですから小青竜湯と葛根湯を使いわけるのは、症状じゃなくて、そうした症状の出ている原因によるのですよ。漢方の世界では細かい症状に応じて生薬の組合せをいろいろできますから、何にでも応じられるという便利さは確かにありますが、これが「何でも薬で」という傾向に拍車をかけるようであれば困りますよ。

さて、それでは「血圧が高いといわれました」「それじゃ降圧剤を出しましょう」一年後、
「先生、血糖値が高いといわれました」 検査すると標準値より高い。「それでは降血糖薬を出しましょう」 こうして、この方は降圧剤と降血糖薬の服用を続けることになります。

このような服用の仕方は、全国津々浦々、皆さんも医師も当然のように行っている健康管理です。
けれども、これが長寿や生活の質の向上につながるというはっきりしたデータは、まだ何も出ていません。何しろこうした健康管理が医師によって行われるようになってから、まだ日が浅い。
一世代たっているかどうかです。むしろ、ひとつひとつの薬剤の副作用、明らかに健康を損ねる副作用のほうが、いくつも報告されています。

高血圧と糖尿病の話でいえば、別々の薬をそれぞれ用いることは、右鼻のつまりと左鼻のつまりを別々の薬で治そうとしているのと同じだ、ということが、現代医学的にもだんだん明らかになってきました。
恐らく、動脈硬化を促進する成人病、高血圧・糖尿病・高コレステロール血症・痛風などは、研究が進めば、こうした分類とそれぞれの検査値を下げるための投薬が、実は見当違いだということになるでしょう。

遺伝子レベルでそのことがはっきりするかどうかはともかく、このような分類でない全然別の分類、例えば漢方医学でやっているような分類と投薬のほうが、現代医学的にみても妥当である、と判明する日がやがて来るように思います。

「恥の上塗り投薬」

どうして先進国の中で、日本がとびぬけて一人当たりの薬剤使用量が多いのか?
例えば抗生物質などは欧米の国々の少なく見積もっても5~6倍。多分10倍くらい大量に使用されている。
皆さんの身体の中へ入っている。有り難がってかどうか知らないが、皆さんは服用してしまう。

使いすぎてMRSAのような致死的な問題が大きくなっているのは、ご承知の通り。もっと日常的には、皆さん毎日服用している血圧を下げる薬、コレステロールを下げる薬も、他国の10倍くらい皆さんは消費しています。

医師の側は病気を見つけたら、それに応じて投薬することを当たり前と思っている。まず生活を直すことから、とは考えない。検診でひっかかる程度のことにも同じ態度でのぞむ。投薬した薬の副作用が出ると、例えば炎症を抑える薬を出して胃を痛めると、他の方法を考えるのではなく、さらに胃薬を出して対処しようとする。

これを「恥の上塗り投薬」と私は言う。降圧剤には服用している患者さんを「鬱的」にさせる副作用が多い。それでも、止めてみたらとは考えず、抗鬱剤を重ねて出す。血圧がわずかに標準値より高いというだけで、降圧剤を服用させられ、ましてや抗鬱剤まで服用するハメになる患者さんは、ちょっときつい言い方をすれば悲劇を通りこして喜劇ですよ。こんなことがいつまでも続いてよいはずがない。

こうした検診項目ごとに薬があるから服用して下さいというやり方をしている先生方は、検診項目が科学の進歩で日々増加しているとき、検診項目が多くなればなるだけ、そのぶん薬を出すつもりでしょうか。そのうち何百種もの薬を、毎日患者さんに服用してもらわなくてはならなくなる・・・。

人間、身体、病気についての考え方が、根本的に間違っているのです。
一方患者さん側はどうか? もともと薬が好きな上に、次から次へとくる検診やドックのお知らせと、次から次へと健康不安をかきたてる新聞雑誌。これでもかこれでもかという「日本は世界一の長寿国」の宣伝にキリキリ舞して、「自分の身体は自分が一番よく知っている」ことをすっかり忘れてしまい、身体のことは「何か」に委ねて、色とりどりの薬がみんな解決してくれると思ってしまう。
特に戦後結核が克服されたのと、抗生物質の出現が時期的に一致していた為に、薬信仰はますます強固になってしまった(医師も同じ)。実際は、平均寿命が伸びたり結核が克服されたのは、生活水準が上がり、衣食が足ったからであって、医薬が足ったからではありません。

もうそろそろ、医者と患者も、コミュニケーションは薬・注射しかない時代は終わりにしましょうよ。
先生と納得できるまで病気やその予防や生活のことを話し合えば、必ずしも薬はいらないということが当たり前になってほしい。診療時間が一人当たり長くなっても診療所の経営が成立するように診療代を上げてほしい。薬価差益で経営が成立するような保険制度はやめてほしい。製薬関係のマンパワーは、人手がいくらでも要る老人対策のほうに回してほしい。薬という「モノ」「商品」は、もうたくさん。病気には、特にお年寄りには、薬よりも生きた人間の介助、マンパワーのほうがずっと必要なんだから。

薬漬け大国日本

これまでわが国が薬の種類も量も、先進国の中で図抜けて多く消費している薬消費大国である理由について述べてきました。ひとつは薬の開発と認可の基準が甘いこと。これは勿論、皆さんの幸せにはつながらない。次は皆さんの薬に対する信仰が大きすぎること。身体のどんな症状も薬が何とかしてくれるという思い、信仰が強い。

それに乗った形で商売上手の薬メーカーが次から次へと薬という商品を開発し、甘い厚生省がそれを認め、「患者の病気は生活を正すことから」とは思っていても、「そんなことに時間をかけるよりも、何でもはい薬、はい薬、と薬を出した方が患者も納得するし・・・」と思っている医者が控えているという構図です。

もうすこし脱線して、この薬漬け大国日本の現状を述べてみましょう。
私などは、イギリスの「揺りかごから墓場まで」という福祉が理想であると、子供のときから教えられていた世代です。医療に従事するようになって感じたのは、予防医学と称して、医学が、医者が、人々の「揺りかごから墓場まで」何かと介入し支配してゆく有り様でした。

生まれる前の胎児診断の段階で、重症の障害児と分かった場合、その両親に「間引き」するかどうか尋ねるという(こういう選択の迫り方は、私にはたいへん残忍な行為に見えますが)ことから始まり、男・女などはとっくに分かっていて、無駄なく生まれ、無駄なく間引きされる。

生まれてから4~5才まではいろいろ問題になっている予防注射・予防接種のオンパレード。
伝染病を克服したのは薬やワクチンであるとの確信がゆるがないから、「ワクチンしてもしなくても、あまり変わらない」といった冷静な当たり前の意見が通らない。その後の「揺りかごから墓場まで」の当局の健康・病気への介入・お節介は、さしずめ小~中学校の給食でしょう。

お役所仕事らしく栄養がそろっていなくてはいけないから、「パンとひじき」とかあるらしいですね。
パンとひじきを、先われスプーンで食べさせるんです。それでも、「家では作れないし、バランスよい食事は与えられないから、食べる作法・しつけも含めて、学校でお願いします」っていうPTAがまだいるんです。行政と業者は既得権を守ることしか考えませんから、給食廃止なんて絶対認めようとしません。

まあ、そんなこんなで、身体の健康について、自分勝手にやれや、と当局がうるさくないのは、20代前後でしょう。まあその時期は、入試というパズルのような頭の検診で、頭の健康が大分損なわれるわけだけど・・・。

そしてもう、30代になると、定期検診が始まるのですよ。一体、これは何ですか。ちょっと数値が外れていると、注意マークがつけられ、「再検査して下さい。」これが生涯つづく。伝染病が克服されて、もう少しほっといてくれると思ったら、当局が今度は「成人病」と言い出して、ますます私たちの身体・健康に介入してくる。これは一体なにごとか?

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