漢方医列伝










「漢方医列伝」

丹波康頼
(902?〜?)



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 初めて日本の医家の登場です。先史時代から中国では
伝説上の神農からはじまって名医伝や名医の著作が残っ
てますが、日本では平安時代以前には、医学書はあった
のですが、残っていません。正倉院に保存されている薬
物を見ても、奈良時代あるいはそれ以前から薬や医方が
おそらくは仏教の伝来などに伴って流入してきたことは
確かなようです。遣隋使や遣唐使が制度化されてから
は、これまで「列伝」にとりあげたような医学の著作
は、間違いなく全部輸入されています。(*)もっとも
中国でも日本でも当時の医学書にあるような漢方医学の
成果を享受できたのは貴族階級の上層部だけで、一般
民は無関係だったことは言うまでもありません。
 奈良から平安(京都)へ遷都されたのが794年です。
平安時代がスタートしてから百年目の894年に遣唐使の
制度が中止されます。そのせいでしょうか、日本で医書
がいくつか書かれます。『大同類衆方』などですが、現
存するのは丹波康頼の『医心方』全30巻のみです。
 この医学書は、これまでのシリーズで紹介した本の中
では、11回目に登場した隋末唐初の巣元方『諸病源候
論』を土台にしており、引用文献は80冊の多きにわた
り、ここに引用されている書物には、中国ではすでに亡
佚したものが多く、文献学的にもたいへん貴重なもので
す。
 さて丹波康頼ですが、当時の知識人の多くがそうで
あったように、帰化人の末裔で、先祖は後漢の霊帝とい
われています。当時の記録に残っていて現存しない医学
書の著書は和気姓と丹波姓が多く、この二家系が連綿と
して日本の医家の代表として続きます。


*宇多天皇寛平天年間、藤原佐世が撰述した『日本国見
在書目録』には当時宮廷に存した中国医書1309巻が記録
されており、これまでのこのシリーズに登場した中国の
医学書はもちろん全部輸入されていたことがわかるし、
本国中国ではその後亡佚し、この目録によってしか窺い
しれない資料もある。


 丹波家と多気家がその後の日本の医家の二大家系とし
て連綿としてつづき、丹波康頼から下って約30代の江戸
時代には、丹波家の分家筋にあたる多紀家が代々幕府の
官医のトップとなり、多くの著作を残し、日本の漢方医
学の発展に寄与しました。丹波本家の現在の当主は大霊
界でおなじみの丹波哲朗氏です。
 さて『医心方』全30巻は、当時、中国から伝わってい
た医学書約80冊からの引用と康頼が独自に日本風にアレ
ンジした内容とからなっています。第1巻の薬物論、服薬
禁忌からはじまり、第2巻はハリ治療について、第3巻は
中風(脳卒中やケイレン)の湯液治療。以下皮膚科、耳
鼻科、口腔科、内科(腹痛、寄生虫、胸痛、嘔吐、下
痢、糖尿病、大小便異常、伝染病など)、外科(できも
の、外傷、火傷)、婦人科、産科、小児科、食中毒と、
全30巻にわたる総合医学書です。
 「ことし例のもがさにはあらず、いとあかきかさのこ
まかな出来て、老いたる若き、上下わずかこれを病
み・・・(栄華物語)」(もがさは疱瘡のこと。赤い細
かいかさとは麻疹のことか)などなどの、流行病にしば
しばおそわれた時代に、この医学がどのくらい有効だっ
たかは御想像ください。
 『医心方』は数奇な運命をたどって明治時代まで伝わ
りましたが、第28巻の「房内」はワイセツという理由で
発禁であったため、戦後その部分が出版された時、何や
ら医心方=房術と誤解を受けたこともありました。一部
引用します。
夏の夜グッタリしていないでハッスルしてください。


『令女仰臥。男女、一脚置於肩上、一脚自之。深内
玉茎入於丹穴中。大興哉!!』
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