| 皇甫謐、字は士安、幼名は静、晩年になって玄晏先生 |
| と自ら号した。 |
| 西晋の安定郡朝那(今の甘粛省霊台県)の人。後漢の |
| 建安20年(215)に生まれ、西晋の太康3年(282)没。 |
| 朝那の皇甫氏といえば名門の貴族で、ずっと朝廷の重 |
| 要な官にあったが、祖父の代のころから没落しはじめた。 |
| 幼い頃、祖父の養子になり、叔父夫婦に溺愛され、18 |
| 歳になっても、放蕩にふけり、勉強もしない。こんなこ |
| とに叔母は心を痛め、たびたび反省するよう諭していた |
| が、謐にはその意が伝わらず、遊んだあとにウリを摘ん |
| で帰り叔母にプレゼントするのが孝行だと思っていたと |
| いう始末。叔母はそのウリを投げつけて言った。「親を |
| 安心させ、喜ばせるのが孝行なのさお前は20歳になろう |
| というのに、勉強もせず、まともなことはちっともない。 |
| こんなに口うるさく言うのは、お前のことを思うか |
| らだよ!」 |
| このことばに皇甫謐は強くうたれ、深く反省した。そ |
| れから経書を学び、いろいろな学問をおさめた。家は貧 |
| しかったので、本を片手に畑を耕すこともあったが、努 |
| 力のかいあって、膨大な書物を読み、百家の思想に通じた。 |
| のちに文学界・史学界に大きな貢献を残した。 |
| 『帝王世紀』『陰陽暦術』『高士伝』『逸士伝』『烈女伝』 |
| 『玄晏春秋』をはじめ、多くの文章を記している。 |
| 42歳のときに風痺病(脳卒中?)のため、半身不随・ |
| 耳聾・右足に障害があらわれた。闘病の間に「五食散」 |
| の効用を妄言して服用した結果、ますます病気を重くし |
| た。そして改めて医学に目覚め、歴代の医書を研究する |
| ようになった。 |
| 彼は主に針灸文献の整理につとめ、多大な功績を残し |
| ている。それまでの『素問』『針経』(霊枢)『明堂孔 |
| 穴針灸治要』を分類整理して『黄帝三部針灸甲乙経』を |
| 編集した。針灸学はこれによって系統的かつ専門的に発 |
| 展したということができる。 |
| この『甲乙経』は562年に日本に渡る。701年、「大 |
| 宝律令」が施行され、その「疾医令」中に「『甲乙経』 |
| を医学者必修の課程とする」と規定された。現在でも、 |
| この書は国際針灸学会の必読書に選定されている。 |