| 朱丹渓、名は震亭、字は彦修、?州義鳥(今の浙江省 |
| 義鳥県)の人であるが、代々丹渓赤岸鎮に住んだので、 |
| 後世丹渓翁とよんで敬われている。「滋陰派」の創始者 |
| である。元の世祖の至元18年(1281年)に生まれ、元 |
| の至正18年(1358年)卒、77才であった。 |
| 彼は農家の出身で、父を医療ミスでなくした後、母ひ |
| とり子ひとりよりそって生きていた。幼いころから学問 |
| を好み、率直な性格であった。青年に成長すると、土地 |
| の先生について経史を学び、科挙[官吏登用試験]を受 |
| 験した。30才のときに、母が胃を患ったのをきっかけ |
| に、医学書に目を通すこととなった。はじめて『素問』 |
| を読んで「簡素な言葉のなかに深い道理がある」と感じ |
| た彼は、5年間の勉強で母の病気を治した。36才のとき |
| に、儒学の朱子の弟子の許文懿に教えを請い、「道徳性 |
| 命」説を研究したが、あるとき、許文懿が重病にかかり |
| 終日起き上がれなくなった。許は朱に医学を学ぶよう勧 |
| め、宿痾を救ってくれるよう頼んだ。丹渓は、自分の身 |
| 内がヤブ医者のために命を縮めることとなったのを思い |
| 出し、科挙受験を投げ捨て、医学を専心する決意をした。 |
| 先生を求めて各地を巡り歩き、武林(今の杭州)で |
| やっと羅知悌に出会うことができた。羅先生は太無先生 |
| とよばれ、金代の劉完素の弟子で、『内経』『難経』に |
| 通じ、張従正・李東垣の説にも詳しかった。丹渓は入門 |
| を願い出たが、容易には許さず、風雨をおかし、門前払 |
| いも厭わず、ようやく3ヶ月後、羅知悌はこの44才の朱 |
| を唯一の弟子とした。 |
| 劉・張・李三家の学説、『内経』『難経』の理論を羅 |
| 知悌に学び、ついに「滋陰降火」という原則をうちたて |
| た。朱丹渓は三家と併せて、金元四大家といわれ、また |
| 金元医学の集大成者ともいわれる。許文懿の四肢疾患を |
| 治療した後は、尊敬をあつめ、その名は江南に広まった。 |
| その著作は、金四大家のなかで最も多く、二十数種を |
| 数え、その代表が『格致余論』『局方発揮』『丹渓心法』 |
| などである。後世に大きな影響を与えたのはもちろ |
| ん、日本では「丹渓学社」がつくられ、もっぱら彼の学 |
| 説を研究し、彼を「医聖」とよんでいる。 |